ファブルブラント商会(C.&J.FAVRE BRANDT)創業者 ジェームス・ファブルブラント。1863年、スイス使節団の1人として特使のエメ・アンベールに随行し来日。1864年に日瑞修好通商条約が締結され、ファブルブラント商会を横浜居留地に創業。紡績、時計、武器、水道管など扱っていた。商館時計の形状はフランソワ・ペルゴが形作り、ファブルブラントが引き継ぎ完成させたとも言える。ジェームスはフランソワ・ペルゴと親交が深く、フランソワ・ペルゴの葬儀では葬儀委員長も務めている。ロンジン(LONGINES)創業は1862年に設立したオーギュスト・アガシの時計製造会社を起源としているが、アガシの甥であるアーネスト・フランシロンがサン・ティミエ近郊ロンジンに工場を開設したことが正式なロンジンブランドの始まりとなる。意外と知られておりませんが、明治時代、スイス商館であるファブルブラント商会が扱った商館時計のムーブメントなどにも採用されており日本に入ってきています。ロンジン初のクロノグラフムーブメント20Hを搭載した、ファブルブラント商会の商館時計も日本で確認されております。今回ご紹介するのは、上記でロンジンの説明にありますファブルブラントとの取引を証明する商館時計となります。ファブルブラント商会が扱ったもので、ロンジン初のクロノグラフムーブメントとして著名な20Hという名のムーブメントが搭載されたファブルブラントの商館時計があります。20Hには、ファブルブラントの商館時計だけでなく、ロンジンが販売したものもあり、その場合ムーブメントの受けにはロンジンの刻印があります。明治時代にファブルブラントが扱ったものは、受けにファブルブラントとカタカナで刻印され、ケースにはファブルブラントの商標が刻印されていることになります。(例外もございます)この20Hモデルの商館時計は、「時計王」で著名な松山猛さんがお持ちで昨年のフランソワ・ペルゴの集いでもお持ちになっておられ、皆様にご披露されてらっしゃいました。ファブルブラントのロンジンモデルは、20H以外にも存在しまして、今回後紹介するのがその他もモデルとなります。こちらがファブルブラントが扱ったロンジンの商館時計となります。外観だけでは、普通の商館時計と同じで一見してロンジンとはわかりません。よくあるダボ式の商館時計です。当然、リューズを押すと裏蓋が開き、ガラス越しにムーブメントを見ることができます。懐中時計がお好きな方で色々と目にしている方ならこのムーブメントを目にしてお気づきになったのではないでしょうか。そうです。このムーブメントは、ロンジンの懐中時計によくある形状のムーブメントですね。アンクルが、イングリッシュレバーのものとスイスレバーのものがあるのですが、このムーブメントはスイスレバーになっております。形状からもロンジン製とわかるのですが、決定的な証拠がテンプ受けにあります。テンプ受けにブランドを象徴する「有翼の砂時計」の刻印が刻まれてあるのがわかると思います。そして、角穴車の押さえ板には「ファブルブラント」と刻印されてあります。ケースの裏側には、ファブルブラントの上級モデルを証する盾獅子印が刻印され、「FAVRE BRANDT LOCLE」とあり、縦書きで「ファブルブラント」と刻まれてあります。調べたところ、この時計は、1888年〜1890年頃(明治21年〜明治23年頃)に製造されたものであることがわかりました。ケースは、商館時計によくある800銀で、ケース裏が丸くラウンドしており魚子模様が施されてあります。ロンジンのファブルブラントの商館時計では、比較的普及品のものが多く、商標も盾獅子印ではなく、蝶印のものを目にします。ロンジンは、比較的一般的な時計の販売を行なっておりましたので、このムーブメントからも頷けます。ファブルブラントは、日本に初めてロンジンの時計を販売した商社としては一般的には、あまり知られていません。ですが、それを証明する明治時代に販売された商館時計があることでそれを垣間見ることができます。ファブルブラントは、ロンジンの他にもゼニス(当時はゼニットと読んでいました)、その他にはユリス・ナルダン、そしてモリスなども日本で販売しておりました。ロンジン、ゼニス、ユリス・ナルダン、モリスなど今ではよく知られる時計メーカーですが、その礎を築いてたのはファブルブラントであるということがあまり知られていないのは残念なことですね。今とは違い、当時は、メーカー同士の横のつながりがあり、深い親交があったものと考えられ、時計製造組合の中でお互いに助け合っていたこと思われる時計が発見されています。この時計もその一つと言えます。アーネスト・フランシオン率いるロンジンが、日本へ時計を販売するには流通を持っておらず、その流通を持っている業者が必要になります。時計製造組合の仲間であるファブルブラント家との話でその流通が叶ったと考えられます。ロンジンが日本向けに製造し納品した時計が、ファブルブラント商会のこの商館時計であるわけです。このように時計の背景を知ることも商館時計の醍醐味です。ロンジンであっても他の商館時計同様にこの商館スタイルの時計を製造していました。それだけフランソワ・ペルゴが見出した日本人好みの形状は、一世を風靡していたこともこのことからもわかります。そしてその日本人好みの形状を広く普及させて人物こそ、この時計の商館主であるジェームス・ファブルブラントという人物なんです。日本の時計史において大変な功労者であり、また日本の近代史においても大きく貢献した人物でもありました。ジェームス・ファブルブラントは、死後、新聞に功労者として取り上げられたことで知られるようになったとされます。生前は、あまり多くを語らなかったそうです。ジェームス・ファブルブラントは、日瑞友好通商条約締結以来日本にいた人物で、幕末から新政府まで、西郷隆盛や河井継之助、様々の要人と深く関わりを持っていました。そのこともあり語れないことも多くあったかと思います。新政府と対立した西郷隆盛が鹿児島へ引き上げる際、ジェースム・ファブルブラントに別れを言いに会いに来たそうでお互いに涙したと言われています。このエピソードは、西郷隆盛がその時点で今生の別れとなることを西南戦争で命を落とすことになるということを悟っていたとも考えられます。西郷隆盛には愛加那との子に菊次郎という息子がいました。その菊次郎も西南戦争に参加しており、その時の銃弾の傷で右足を切断したとされています。実は、この菊次郎を匿ったのがジェースム・ファブルブラントであったこともあまり知られていません。ひょっとすると最後の別れの際に菊次郎のことを頼んでいたのかもしれませんね。ジェームス・ファブルブラントという人物には多くの逸話が残っています。彼は若い頃から日本に憧れてたそうで、いつか必ず日本へ行くと語っていたそうです。エメ・アンベール公使の使節団が日本へ行くことを知り、伝手を使い参加することが叶います。この伝手というのは、お姉さんが時計メーカーのティソに嫁いでおり、ご主人が政府に関わる要人であったことから懇願したそうです。使節団として随行することは叶いましたが、実は実費での参加でした。そのこともあまり知られていません。ジェームス・ファブルブラントとしては命をかけての参加であったと考えられます。日本へ渡り、使節団の仕事をこなし、彼は使節団から離れ日本に残りビジネスを起こしました。それがファブルブラント商会というわけです。元々、ファブルブラント家は時計職人の家系でもあり、ジェームス自身も兄弟も時計師であったことから時計を扱うことには慣れておりました。ですがそうは簡単にいきませんでした。時計が売れるようになるまで軌道に乗るまでは色々なビジネスをしたと思われます。銃器の販売も行いました。このことから様々な要人との関わりを持つことになったと考えられます。当時の日本は、幕末の動乱の中、各藩はこぞって西洋銃を求めたとされます。その中でジェームスにも声がかかったものと思われ、銃器ビジネスで凌ぐことができたのだと考えれます。その他にも水道管やメリヤス機械、印刷機、溶接、汽車など様々なビジネスを行なっていました。大阪の産業革命でメリヤスが大変有名ですが、そのメリヤス機械を大阪で販売したのはファブルブラントでした。ファブルブラントは、時計史のみならず近代史にも大変貢献していたのですが、ほとんど知られていません。これは本当に悲しいことです。もっと知ってもらえるように我々も活動をしていかなくてはなりません。ロンジン製のファブルブラント商会の商館時計のご紹介でしたが色々とお話ししてしまいました。少しでも商館時計に興味を持って頂けますと嬉しい限りです。どうぞ宜しくお願いします。時計店で断られてしまった時計でも諦めずにお気軽にご相談ください。掛け時計、置き時計、懐中時計、腕時計、どんな時計でも大歓迎です。▶︎商館時計に漂う明治時代の魅力商館時計などや100年以上経過した時計を本来の姿に甦らせてみませんか。誠心誠意ご対応させていただきます。